圓通寺について

歴史

圓通寺はもと圓通庵といい、黄檗宗・弘福寺(墨田区)の開山・鉄牛道機和尚隠棲の地として貞享二年(一六八五)秋に開創されたものと思われます。以降現在に至るまでの歴史をご紹介いします。

1-1. 圓通庵と鉄牛和尚

圓通寺はもと圓通庵といい、黄檗宗・弘福寺(墨田区)の開山・鉄牛道機和尚隠棲の地で、元禄年中(1688-1703)に開設されたと伝えられていますが、その開設はややさかのぼり、鉄牛道機和尚が法弟・鉄関元参和尚に弘福寺を譲った貞享二年(1685)秋のことと思われます。
「圓通院 本尊正観音ヲ安ス小庵ナリ 元禄年中須崎村弘福寺開山鉄牛隠棲ノ旧跡ナリ―」 ―『新編武蔵風土記稿』―
このころの圓通庵(圓通寺)の境内は、弘福寺の抱地とはいえ千二百六十坪という広大なもので、本尊・聖観世音菩薩が安置され、弘福寺と本末関係を結ぶ黄檗宗寺院でした。
開山・鉄牛道機和尚は日本黄檗宗の祖・隠元禅師の門に入り、のちその法弟・木庵禅師に師事し、隠元禅師の黄檗山万福寺開創をたすけ、全国に六十余か寺を建立した高僧で、のちに大慈普応国師の勅諡号を賜っています。
また鉄眼道光和尚の『大蔵経』の刊行に助力し、千葉県の椿沼開拓の大業を成し遂げた禅僧として知られています。

延宝六年(1678)、弘福寺に住していた鉄牛和尚は下総に巡化し、椿沼開拓事業(『圓通寺雑記』参照)に着手しました。
この大事業が完了するのは元禄二年(1689)のことで、この間、鉄牛道機和尚は開拓事業に携わる一方、芝・瑞聖寺(港区)などで宗要挙揚につとめた記録が残されています。
圓通庵(圓通寺)は鉄牛道機和尚が江戸と下総を往復する際の中継地であり、休息地でもあったのでしょう。
元禄元年(1688)、幕府によって古跡寺院、新地寺院の区別が定められました。
これは寛永八年(1631)の新地建立禁止令を境として、以前に建立された寺院を古跡寺院、以降に建立された寺院を新地寺院といい、古跡寺院が災禍によって損壊または焼失した場合はその再興は認めるが、新地寺院の場合は一切認めないというものです。
もちろん廃寺となったり潰寺となった場合もその再興は認められません。

坐禅圓通庵(圓通寺)は貞享二年(1685)の開創で、新地寺院に属します。
圓通庵(圓通寺)に隠棲した鉄牛道機和尚の学徳を慕って訪れる著名な諸士や文人墨客らがあとを絶たず、仏法や詩歌を論じたと伝えられていますが、これは鉄牛道機和尚が椿沼開拓事業を完了し、圓通庵(圓通寺)に常住した元禄二年(1689)から、香取・福聚寺(千葉県)へ移るまでの十年ほどのことでしょう。
この元禄二年八月一日、閣老・稲葉美濃守正則の築地下屋敷に観音堂が建立され、鉄牛道機和尚とその高弟らによって落慶法要が勤修されました。この観音堂は幕末まで安置されていたと伝えられ、文政十年(1827)のころは圓通庵(圓通寺)が供養をつとめていました。
稲葉美濃守正則は鉄牛道機和尚に深く帰依し、弘福寺の開基にあたった小田原藩主です。とうぜん圓通庵(圓通寺)の開創にも厚い外護を寄せたことでしょう。元禄九年(一六九六)九月六日、稲葉美濃守正則が歿し、小田原・紹太寺(小田原市)に葬られました。法号を潮信院殿泰応元如大居士といいます。
圓通庵(圓通寺)で鉄牛道機和尚による法要が行われたと推定されます。元禄一三年(1700)八月一日、鉄牛道機和尚が示寂しました。
『大慈普応国師年譜』によると、かつて椿沼開拓のおり自らが開創した香取・福聚寺(千葉県香取郡東庄町)で示寂し、同寺に葬られたと記されています。
鉄牛道機和尚がいつ福聚寺へ移ったかは記録がなく不明ですが、少なくとも示寂する前年の元禄一二年(1699)ごろまでは、圓通庵(圓通寺)に在住したのではないでしょうか。

鉄牛道機和尚が去った後の圓通庵(圓通寺)は、弘福寺歴代住職によって護持されますが、次第に衰微し荒廃していきました。文政十年(1827)に編纂された『江戸黄檗禅刹記』の「圓通庵略縁起」によると、鉄牛道機和尚が去ったのち、幕府の命によって本所・小梅周辺の寺院抱地にある庵室がとり壊され、圓通庵も境内に一屋を残すのみで、すべてとり壊されたと記しています。
「圓通菴ハ葛飾郡西葛西領小梅村ニ在。―開山鉄牛和尚隠居ありし跡也。そのかミ和尚此地ニ一菴をたて観世音を安置し圓通菴と号し境内ニ妙見、稲荷等の社を建つ。和尚、下総国補蛇山へ移住の後、本より本所辺一統抱地の菴室取り払ふへきよしの命令ありけれハ、其時□括となり地寺の家一軒のミ残り――」 ―『圓通庵略縁起』―

1-2. 圓通庵の再興

享保一六年(1731)八月、圓成衍道和尚が弘福寺一六世として入山し、鉄牛道機和尚ゆかりの圓通庵(圓通寺)を再興しました。圓通庵(圓通寺)中興初祖といいます。
この享保年中(1716-35)は、八代将軍・吉宗の代で、いわゆる「享保の大改革」が行われた時代です。寺院をはじめ庵室等の再建はむずかしく、しかも新地寺院である圓通庵(圓通寺)の再興はまず不可能に近く、稲葉家をはじめ仙台藩・伊達家、備前藩・池田家、彦根藩・井伊家といった弘福寺ゆかりの藩主らの尽力が功を奏したのでしょう。

ちなみに五代将軍・綱吉の母・桂昌院によって開創された新義真言宗総録・護持院が、享保二年(1717)に焼失していますが、遂に再興されることはありませんでした。将軍家ゆかりの寺院の再興もかなわなかったこの時代に、圓通庵(圓通寺)が再興されたわけです。明和二年(1765)、圓成衍道和尚は春江如昌尼を圓通庵(圓通寺)の二世としました。春江如昌尼についての記録はなく、その出自等については不明です。いらい圓通庵(圓通寺)は明治中期にいたるまで尼寺としてつづきます。
安永三年(1774)六月二九日、越後与板藩主・井伊兵部少輔直朗の妻が歿し弘福寺に葬られました。法号を宝地院殿蓮馨如清大姉といい、時の老中・田沼主殿頭意次の四女にあたります。この宝地院に仕えた繁野という侍女が、宝地院の菩提を弔うため剃髪して、圓成衍道和尚に師事しました。圓通庵(圓通寺)三世・貞心如松尼です。
「安永三年甲午六月廿九日、越後与坂の領主・井伊兵部少輔直朗の内室・田沼氏卒去りし時、侍女・八木氏繁野といふもの、内室の菩提のため剃髪し、弘福一六代・圓成和尚の弟子となり如松尼と号す」  ―『圓通庵略縁起』―
貞心如松尼は、宝地院の木像(厨子入)を安置するとともに、井伊、田沼両家の位牌を安置しました。井伊兵部直朗、宝地院の実弟・田沼中務少輔意正(玄蕃)が外護にあたりました。

与板藩・井伊家は二万石の小藩ですが、彦根藩・井伊家の分家にあたり、井伊兵部少輔直政の長男・直勝を初祖とする名家で、宝地院の父・田沼主殿頭意次は、十代将軍・家治に仕え、商品経済を助長して商業資本と結び、幕府財政の再建を計った時の老中として勢力絶頂期にありました。
鉄牛道機和尚の時代につぐ、圓通庵(圓通寺)の寺運隆昌期といえましょう。「略縁起」によると、このおり貞心如松尼が妙見菩薩の勧請を願ったところ
「直朗殊勝の事なりとて、弘福寺の抱地の内ニ庵室を営むことを周旋ありて、取建も事故なく免許なれは速ニ成就し」
境内に妙見堂が建立されました。老中・田沼主殿頭意次の尽力がなければ簡単に成就する時代ではありません。
尼さんいらい貞心如松尼は圓通庵(圓通寺)に住し、寛政九年(1797)十一月三日示寂しました。法号を清操院貞心如松釈尼といい、多摩郡八王子散田新地千人町に葬ったといいます。貞心如松尼は八木氏の族といわれ、八王子散田の郷士の娘ではなかったかと思われますが、八王子近在に八木氏の記録は残されておりません。

文政七年(1824)、弘福寺は抱地である圓通庵(圓通寺)の境内地千二百六十坪のうち、千百六十坪を売却しました。西南の隅に残されたわずか百坪の地が、圓通庵(圓通寺)の境内地となったわけです。妙見堂は取り壊され妙見菩薩の尊像は仏殿に安置されました。弘福寺が抱地を売却した理由については、ただ「故有りて」とだけ記されています。

文政十年(1827)、圓通庵(圓通寺)の「略縁起」が記され、『江戸黄檗禅刹記』が編纂されました。
法系の条を見ると四世・智鏡真明尼で終わっており、このころ圓通庵(圓通寺)に住していたことがわかるとともに、「略縁起」も智鏡真明尼によって記されているわけです。

慶応三年(1867)、十五代将軍・慶喜によって大政が奉還されて江戸幕府が崩壊し、翌四年(1868)、明治新政府が樹立されると神仏分離令が公布され、廃仏毀釈運動が全国に広まりました。全国の各寺院は一様に荒廃への道を辿ります。圓通庵(圓通寺)も例外ではなく、井伊家、田沼家の外護も絶え荒廃の極に達しました。
江戸時代を通じて臨済宗の一派として扱われてきた黄檗宗は、明治九年(1876)、明治新政府によって独立した一宗として認められます。
改宗の自由が認められたのもこの年のことで、圓通庵(圓通寺)は曹洞宗に改宗され、それ以来尼僧が住しました。曹洞宗宗制によると、寺院の階級は格地・法地・平僧地の三種に分かれ、堂や庵等の小院を平僧地と呼び、未嗣法の男僧や、嗣法資格をもたなかった尼僧などが住しました。

1-3. 現在の圓通寺へ

昭和二十年、圓通寺の開山・大達智道大和尚(佐藤智道:山梨県寶林寺22世)が住職となり、寺格昇等の認可を得て、法地寺院として圓通庵から圓通寺と改称することになりました。
戦火により焼失した境内に、開山・大達智道大和尚は木造の仮本堂を建立して布教に専念、檀信徒もしだいに増加し、かつ堂宇も狭隘となったため、昭和四十二年に庫裡(木造)・本堂(鉄筋)・地下駐車場からなる三階建寺院を建立し、その発展は目ざましいものがありました。
圓通二世・幽妙達玄大和尚(佐藤達玄:駒沢大学名誉教授・文学博士)代に、先住の遺志により全面的な改築を計画し、時勢の要望に応えて、平成二年八月、地下墓地併設の三階建本堂を建立し、寺院建築史上に一石を投じたことにより、建築界の注目を集めて諸誌に紹介され話題を呼びました。
現在、平成15年より3世天山大英大和尚(佐藤大英:神奈川大学人間科学部非常勤講師・農学博士)が住職を務めています。

2. 圓通寺の諸仏

本尊・観音菩薩

本尊

圓通寺のご本尊は観音菩薩で、正しくは観世音菩薩、観自在菩薩といいます。
一切衆生を観察し、衆生が救いを求める声を聞くと自在にこれを救うということで、衆生に悟りの法を説く如来に対し、衆生に現世利益の救済を施すといわれています。
ふつう観音という場合は聖(正)観音をさします。
圓通寺のご本尊も聖観音で、十一面、千手、如意輪など変化する観音と区別するために聖または正を冠せ、変化しない本然の観音そのものを指しています。
勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍ともなることから、宝冠には阿弥陀如来の化仏をいただき、身に条帛、裳(正しくは裙)をまとい、天衣をつけ、胸飾、腕輪、瓔珞、などで身を飾り、蓮華座に立つか座っています。
圓通寺のご本尊は坐像で、右手は衆生の畏れを去らせる「施無畏印」、左手には蓮華を持っておられます。

勢志菩薩

勢至菩薩像

威勢自在の菩薩という意味で、大勢志菩薩ともいいます。
智慧第一の菩薩とされ、その智慧の光で一切を照らし、衆生に無上の力を得らさせ、菩薩の心をおこさせる働きをすると考えられています。
る働きをすると考えられています。
一般に、観音菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍となり、独立の像はあまり作られません。
像容も観音菩薩とほとんど変わらず見分けがつきにくいのですが、その最大の特徴は、観音菩薩が宝冠中に阿弥陀如来の化仏をいただくのに対し、勢志菩薩は宝瓶をいただいていることです。
圓通寺の勢志菩薩は、ご本尊の右手に安置される独立した尊像です。

毘沙門天

毘沙門天像

毘沙門天は四天王(持国天、増長天、広目天、毘沙門天)の随一で多聞天ともいいます。
四天王はもとインドの護世神でしたが、仏教に入り仏法と仏法に帰依する人びとを守護する護法神となりました。
仏教的世界観では、世界の中心にある須弥山に住む帝釈天の下で、須弥山中腹の四方の門を守護しているといわれています。
毘沙門天は北方の守護にあたるほか、仏が法を説く道場を悪魔から守り、場内を静粛にさせて法を広く聞かせ、しかも聞いたことをすべて智慧として残させる役割を果たしています。
像容は、本来きまった形がなく、インドでは貴人の姿につくられていましたが、日本では武装忿怒形となりました。
毘沙門天は独尊としての信仰も強く、のちには福徳高貴の神とされ、やがて七福神の一つに加えられました。
毘沙門天の腹部にある鬼面を海若といい、毘沙門天が本来は水神であることを示していますが、それが転じて足元に踏む天邪鬼と呼ぶようになりました。
武装忿怒形であることから、軍新として武士階級の厚い信仰が寄せられました。
圓通寺の毘沙門天は、本尊の左側に安置されています。

妙見菩薩

かつて圓通寺には境内に妙見堂があり、妙見菩薩が安置されていました。
妙見菩薩は北辰尊星妙見大菩薩、尊星王ともいい、北斗星の本地で国土を守り、災を消し、敵をしりぞけ、人の福徳を増益しようと誓願したと伝えられています。
その像容は二臂、四臂のものなどがあって一定しませんが、左手を胸にあてて如意宝種珠をもち、右手で衆生の願望するものを与える「与願印」を結んだ吉祥天に似た尊像が多いようです。
圓通寺の妙見菩薩は、はじめ開山・鉄牛道機和尚が勧請しましたがのちに廃祀され、安永三年(1774)三世・貞心如松尼によって再び勧請されました。
妙見菩薩を勧請して長寿延命、除災招福を祈祷する法を北斗尊星法といいますが、その信仰はインド仏教に由来するよりも、中国の道教に基づくところが多いといわれています。

稲荷社

圓通寺の稲荷社も開山・鉄牛道機和尚が勧請したもので、『新編武蔵風土記稿』には妙見堂とともに記載されています。
稲荷信仰は、地蔵信仰とともにもっとも広く親しまれてきました。
稲の穀霊に起源をもつ食物の神として崇拝され、近世以降は商売繁盛の神として、全国津々浦々の人びとに信仰されています。

道元禅師

道元さま

鎌倉時代の禅僧で,の日本曹洞宗宗祖。
号は希玄。
内大臣源通親と太政大臣藤原基房の娘の子。
坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。
『正法眼蔵』は、和辻哲郎、ハイデッガーなど西洋哲学の研究家からも注目を集めた。
当山では木造を須弥壇に安置してあります。

瑩山禅師

栄西禅師

曹洞宗の禅僧。
日本曹洞宗第4祖で総持寺の開山。
越前(福井県)生まれ。
幼名は行生。
教団の拡充に意をくだき,密教儀礼や民間信仰を取り入れて曹洞禅を民衆化した。
この瑩山を,宗門では高祖道元に対して太祖と称している。
『当山では木造を須弥壇に安置してあります。

3. 圓通寺雑記

開山・鉄牛道機和尚が開拓した椿沼は、香取、海上、匝瑳三郡にまたがる三千三百八十八町七反余といった広大な地で、元禄八年(1695)に行われた検地によると、石高二万四百十九石と記されています。
ここに十八か村が成立したといわれ、現在でも千葉県有数の稲作地帯となっています。
『日本仏家人名辞書』によるとこの間の鉄牛道機和尚を
『――延宝六年下総に巡化し、椿沼開墾の事業を経営す。
蓋し数年以前より椿沼開墾の議ありしも決せざりしが、師一たひ其土地に到りて実視し、大に国利があるを知り、稲葉正則に謀り、土地の豪族を説きて経営し、元禄二年に至り、新田八万石開墾功を畢ふ。
其間十二年出てゝは開墾造営の事業に奔走し入りては瑞聖寺に宗要を挙揚すること一日の如し』
と記しています。

開拓事業を完了した鉄牛道機和尚は、圓通庵(圓通寺)に常住し、のち福聚寺(千葉県香取東庄町)に移り、元禄十三年(1700)八月二日、七十二歳で示寂しました。
鉄牛道機和尚の墓は県史跡に指定されています。
圓通庵(圓通寺)が開創された現在地は、武蔵国葛飾郡葛西領小梅村と称しました。
もとは下総国(千葉県)に属しましたが、貞享三年(1686)、江戸府内の人口が急速に増加したことから、市街地を拡大するため利根川(江戸川)を境に、以西を武蔵国、以東を下総国と定めたものです。
小梅村は江戸期から明治二四年(1891)までの呼称ですが、『新編武蔵風土記稿』によると、もと梅香原といったといい、江戸末期には豪商らの別邸が木立の中に散在する閑寂な地として知られました。

達磨さんかつて圓通庵(圓通寺)には、室町時代初期の画僧で強い筆致と濃い色彩を得意とした明兆筆の「達磨大師画像」をはじめ、狩野派駿河台家の初祖・狩野益信(洞雲益信)の「隠元国師画像」、狩野派木挽町家の栄川院典信の「維摩経画像」などが所蔵されていました。
また木菴禅師の筆による「白雲軒」の篇額や、与板藩主・井伊兵部少輔直朗の「美墻」、弘福寺二十三世・鶴峯如広和尚(南陽)の「清鏡庵」、「圓通庵」の篇額が掲げられていましたが、残念なことに明治四十三年(1910)の洪水や関東大震災、空襲禍などの災禍によって、すべて焼失してしまいました。

4. 年表

  • 万治 2年(1659) 隠元禅師、黄檗山万福寺を創建し、鉄牛和尚これをたすく。のち鉄牛和尚江戸へ下る。
    この年、幕府、改めて新地建立を禁止す。
  • 延宝 二年(1674) 鉄牛和尚、善左新田(現・隅田四丁目)の小庵を移して一寺とし、弘福寺と号す(『江戸名所図会』)。開基・稲葉正則。
  • 延宝 6年(1678) 鉄牛和尚、下総(千葉県)を巡化し、椿沼開拓に着手す。
  • 延宝 8年(1680) 関東・機内大飢饉。米価高騰し庶民困窮す。
  • 貞享 2年(1685) 鉄牛和尚、小梅村(現在地)に圓通庵(圓通寺)を開創す。
    法弟・鉄関和尚を弘福寺二世とす。
  • 貞享 3年(1686) 幕府、葛飾郡を利根川(江戸川)を境に二分し、以西を武蔵国、以東を下総国とす。
  • 貞享 4年(1687) 幕府、「生類憐みの令」を発布。
  • 元禄 元年(1688) 幕府、古跡寺院、新地寺院の区別を厳格に定む。寛永八年以前に建立の寺院を古跡寺院、以降に建立の寺院を新地寺院とす。当山、新地寺院。
  • 元禄 2年(1689) 鉄牛和尚、椿沼開拓を完了す(『日本仏家人名辞書』)。
    8月1日、稲葉家下屋敷に観音堂落慶し鉄牛和尚供養す。以後、圓通庵これを供養か。
  • 元禄 5年(1692) 幕府、新寺の建立を禁止し、潰じの再興、庵の寺院取立を厳禁す。
  • 元禄年中(1688~1703) このころ庶民の生活安定し、庶民信仰隆昌す。
  • 享保 元年(1716) 紀伊・徳川吉宗、八代将軍となり、「享保の大改革」を行う。農民はじめ、庶民への圧迫激しく庶民困窮す。
  • 享保 16年(1731) 圓成和尚、弘福寺十六世となり、圓通庵を再興す。圓通庵中興初祖と称す。
    稲葉、井伊、池田、伊達家等外護を寄す。
  • 享保 17年(1732) 享保の大飢饉。
  • 宝暦 12年(1762) 幕府、寺院への田畑の寄進を禁止し、寺院の改宗を禁止す。
  • 明和 2年(1765) 圓成和尚、春江如昌尼を圓通庵二世とす。のち尼寺となる。
  • 安永 3年(1774) 6月29日、越後与板藩主・井伊直朗の室(田沼意次の四女)歿し弘福寺に葬らる。侍女・繁野、その菩提を弔うため剃髪し、貞心如松尼と号して圓通庵三世となる。井伊直朗、田沼意正これを外護し、両家の位牌を安置す。このおり妙見堂を勧請す。稲荷社も勧請か。
  • 寛政 9年(1797) 11月5日、貞心如松尼示寂し、八王子散田千人町に葬る。
  • 享和 2年(1802) 諸国洪水。江戸本所、深川の被害甚大となる。
  • 文政 7年(1824) 弘福寺、抱地の圓通庵境内地「千二百六拾坪」のうち「千百六拾坪」を売却す。圓通庵境内地、西南隅の「百坪」となる。
  • 文政 10年(1827) 「地誌書上」提出さる。『新編武蔵国風土記稿』の当山の条は、このおりの「地誌書上」による。この年、『江戸黄檗禅刹記』まとめらる。当山の「略縁起」等収められ現存す。
  • 安政 2年(1855) 十月、江戸大震災。当山災禍の記録なし。
  • 慶応 3年(1867) 一五代将軍・徳川慶喜、大政を奉還し、徳川幕府崩壊す。
  • 慶応 4年(1868) 戊辰戦争はじまる。
    明治新政府、神仏分離令を布告し、廃仏毀釈運動広まる。廃寺、無住職となる寺院多し。
  • 明治 4年(1871) 「社寺上知令」発布され、境内地、有官地となる。
    「寺請制度」廃止される。
    廃藩置県。
  • 明治 9年(1876) 政府、転宗の自由を認む。黄檗宗から曹洞宗になったのはこのおりのことか。
  • 明治 12年(1879) 永平寺、総持寺の両寺一体を基底にした「両山盟約」が成り、近代曹洞宗教団の根幹となる。
  • 明治 14年(1881) 「曹洞宗本末憲章」発布さる。
  • 明治 38年(1905) 日露戦争終わり、庶民信仰隆昌す。
  • 明治 43年(1910) 関東地方大洪水。当山周辺水深「一丈五尺」。当山災禍の記録なし。
  • 大正12年(1923) 関東大震災。堂宇焼失す。直ちに再建されたと推察す。
  • 昭和 20年(1945) 3月、空襲禍により堂宇ことごとく灰燼に帰す。
    このころ圓通庵を圓通寺に改む。
  • 昭和 24年(1949) 五月、本堂・庫裡をかねた仮本堂(木造)を建立す。
  • 昭和 43年(1968) 5月、本堂・庫裡(鉄筋コンクリート)竣工す。
  • 平成 2年(1990) 堂宇狭隘となり新本堂を建立し中興す。